9月 2011

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「佐野洋子」

この本は出てすぐ本屋で見つけた。見つけたときすごく嬉しかった。

ひさしぶりで読み返し、わたしにとっての佐野洋子追悼にしたい。

才能も頭もないので当然なのだが、絵本もお話もおもうように書けず、苦し紛れにこの本を読み返している。佐野洋子は死んだのだ。あんなに威勢よくウソもてらいもなく自分の回りを書き綴ったエッセイの数々。どれほどの返り血をあびたのだろうかと想像にかたくないが、そういうたぐいのことを佐野洋子は一切書かない。この人の書いたものにはウソがない。きれいごとがない。ありのままの日常のどろどろを美化もせず濾過もせず、正直に書き綴っている。それは強い人間にしかできない離れ業だ。どんな小さな日常にも、嫌な部分は潜んでいる。友だちとの会話でも、時にどろどろとした嫌な部分も入り込む。そのどろどろを佐野洋子はポン!と差し出し、持って生まれた鋭い批評眼でさらりと料理する。そして平気である。友だちにも肉親にもその他の人々にもけっして媚びたり悪びれたりしない。その強さがすごい。けれども、きっと陰で、ゴーゴーと涙をながしてるんだろうな。泣かないふりして。

最後のエッセイ『死ぬ気まんまん』で、「死なない人はいない」と死を目前にして平然という。そういう毅然としたところが好きだった。年をとれば死ぬのは当たり前だけど、死を特別なことのように、声だかに騒ぎ立てる世の風潮には辟易する。佐野洋子は、そういう人たちの対岸にいた。それは、ややもするとへなっといきそうになるわたしに、ささやかな矜持をもたらしてくれる。佐野洋子の人生をぐっと見据えた本も生き方も、わたしにとっては、生きることへの強いメッセージである。

何故子どもの絵本を描くのか。の問いに「私は客観的な大人として、子どもを観察し理解し子どもに語りかけているのではない。私はあくことなく、私の中の子ども時代のわたしに向かって語りかけている」という。佐野洋子の絵本をよむと、ぱあーと寂しさがひろがる。けれどもその寂しさは人間を包み込む愛情のこもったさみしさだ。日々の暮らしそのものなのである。いま、そんな絵本を描く人がいるだろうか。そしてそんな本を出す出版社があるのだろうか。そんな御託を並べる前に、はたしてわたしはどんな絵本を創ろうとしているのか。問題はとてもとてもあきらかで、前にある壁はとほうもなく高く厚い。

佐野洋子様、母親としてはみっともないと卑下していた貴女は、お裁縫も料理も上手な生活の人でした。ふつうがえらい!といいながら普通でない本をたくさん残してくれて、ありがとう。これからも、死ぬまでファンでいます。もしできたら天国で会いたい。でも、ぼろくそに言われそうで、コワいなあ・・。

むかご

9月の紫陽花

朝、ムスメから電話。「赤ちゃんのお祝いに木でできたのがいいかなって・・・、木売内工房さんネットで見たんだけど、これから友だちと行こうかなと思って」

あら、そう! じゃ、お昼は、うちで食べるのね。滝沢の家を出るのが10時前だというから、昼頃、木売内工房さんで落ち合うことに。

春以来すっかりご無沙汰していた木売内工房さん。社長の木村和也さんは、忙しく全国を飛び回っている様子。ちょっと陣中見舞いもかねてお邪魔しようと思っていたので、ちょうどいいや。

お昼の準備をして、一路木売内へ(これ、地名でもありんすよ)。

木々は9月の色だ、すこし疲れて、くたびれた緑。ところどころ、黄ばんだり、朽ちたりしている。風は秋の風、晩夏だ。この夏から秋に抜ける時間の割れ目、いいよね。どこかしらロマンチックで。

木売内工房

12時半に木売内工房さんのギャラリーに到着。ムスメはすでに着いていた。

友だちのTさんもいっしょ。仲良し3人組の一人が無事女の子を出産。そのお祝いをさがしているらしい。わたしが着いたときには、すでに、小さな小さなイスに目星をつけていた。

店内

きょうはいつもより家具製品が多く並んでいるようにみえる。あわただしく寄ることが多いので、一つ一つに目がいかなかったのかもしれない。

ガラスの器

すてきな長椅子をみつけた。ソファサイズ。見た目はさりげないのだが、ちょっと腰掛けてみたら、あら、不思議。とっても座り心地がいい。「あれ、これすごくいい!!」するとムスメがすかさず「わたしもそれ、いいなあとおもって・・・」ふつうのソファより木のほうが座り心地がいいなんて、これには新鮮におどろく。

ロッキングチェアも、こわごわのってみる。「ぜんぜん大丈夫ですよ」どんなにゆらしても決してひっくりかえらないから。と笑われちゃうワタシ。こんな素敵なイスにゆらゆらゆられたら、傑作童話がかけるかなあ?・・? 夢は見るもの口はほざくもの・・そんな言葉あったっけ?

ムスメは草木染めの織物がいたく気にいったようで、ランチョンマットを物色。Tさんは手織りの手提げを、わたしはちょっと大きめのコースターを。この上にコーヒーをのせて・・一息、絵になりますねえ。

コースター

数日前、ご近所の方から声をかけられた。なんでもはじめて木売内工房さんを訊ねたとのこと。「びっくりしたわあ。久慈にあんなに素敵なお店があるなんて知らなかった」、って。え〜、それを聞いたわたしは、これまた、びっくり。なんで、いままで知らないの???

久慈の山根には、全国に名を売る木のお店、木売内工房さんがありますよ。とってもセンスのいいおしゃれなギャラリーですよ。そうそう、社長の木村和也さんは大阪から明日戻ってこられるそうでーす。一週間ぐらいはいられそうとのこと、ぜひぜひ、足を運んで、素敵な手作り家具の数々を見に来てくださいね。

 

 

下流志向

9月2日の内田樹のブログに「学ぶ力」と題して、中学生諸君に向けた超、目のさめるような論説がのっている。自分がどんなに盲目かということが骨身にしみるだろう。わたしだってもちろん骨身にしみる。あれ・・脂肪にもかな?

この文を、子育てで悪戦苦闘していた時代に読みたかったなあ。

まあ、そういうことですので、子育て中の親御さんは必見ですぞ!だれも教えてくれませんよ。この反対のことを、えらい人たちはわんさかわんさかいうけど、やっぱりやっぱりそうだったのかと思うのです。教育現場は謎だらけ不可解極まるのですから。まずは、なんのための勉強かが、ずれてしまってるんですね。

(リンク先の「内田樹の研究室」見てね!)

え〜それで、内田樹「下流志向」講談社文庫です。こわーい題名ですね。「学ばない子どもたち、働かない若者たち」たしかに。でもそれにはふか〜い訳が、ありそう。

ところが、この本なかなか手強いのです。わたしごときの頭ではここに簡単に噛み砕いていえるような代物ではもちろんない。だから、ぜひ、読んでくださいね。

でも、がんばってかいつまんでみまーす。

〈市場原理を掲げて学校教育に立ち向かう子どもたちは、いわば、人類学的な進化圧に抗して戦っていることになります。おのれの幼児的欲望を抱え込んで、決して成長変化することのない消費主体のままでいること。市場原理は子どもたちにそうあることを要請します。でも、それは子どもたちを幸福にするためではありません。子どもたちを外界の変化にも適応して生き延びさせるためでもありません。 けれども、そのことを子どもたちに告知する人はほとんどいません。〉

第2章のリスク社会の弱者たちも、ちょっとかいつまんでみますね。

(リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目標に掲げる、相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから、「リスク社会を生きる」というのは巷間言われているように、「自己決定し、その決定については一人で責任を取る」ということを原理として生きることではまったくないのです。「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。)

おそろしいことですね。あ〜〜こわい! でもこれほんとのこと言ってるんだよね。

教育の「入り口」でも「出口」でも、市場原理が深々と入り込んできている。そのせいで、こどもたちもあるいは卒業生を迎える社会も、学ぶことの意味を見失ってしまっている。 学ぶことの意味を知らない人間は、労働することの意味もわからない。)

第4章に、親と子の関係についてこう書いてあります。

(親の仕事というのは、本来子どもの発信するノイズをシグナルに変換することだと思うのです。///ノイズをシグナルに変換するというのは、ある種の「命がけの跳躍」なんです。(それは)敬意と忍耐をもって静かに耳を傾けなければいけない。///「製品」は歌わないけれど、子どもは歌っているわけですから。それを歌として聴き取れるのは、とりあえず親しかいない。)

そして最後に自身がこれからやろうとしていること、つまり武道をとおしての身体性の教育および宗教性、そして親密圏のモデルの試みについてなど語っている。う〜ん、やっぱりすごいや内田先生。わたしも関西にいたら内田道場に飛んでいっちゃうのになあ・・とほほ、あまりにも遠い。

 

 

 

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