内田樹「下流志向」講談社文庫

下流志向

9月2日の内田樹のブログに「学ぶ力」と題して、中学生諸君に向けた超、目のさめるような論説がのっている。自分がどんなに盲目かということが骨身にしみるだろう。わたしだってもちろん骨身にしみる。あれ・・脂肪にもかな?

この文を、子育てで悪戦苦闘していた時代に読みたかったなあ。

まあ、そういうことですので、子育て中の親御さんは必見ですぞ!だれも教えてくれませんよ。この反対のことを、えらい人たちはわんさかわんさかいうけど、やっぱりやっぱりそうだったのかと思うのです。教育現場は謎だらけ不可解極まるのですから。まずは、なんのための勉強かが、ずれてしまってるんですね。

(リンク先の「内田樹の研究室」見てね!)

え〜それで、内田樹「下流志向」講談社文庫です。こわーい題名ですね。「学ばない子どもたち、働かない若者たち」たしかに。でもそれにはふか〜い訳が、ありそう。

ところが、この本なかなか手強いのです。わたしごときの頭ではここに簡単に噛み砕いていえるような代物ではもちろんない。だから、ぜひ、読んでくださいね。

でも、がんばってかいつまんでみまーす。

〈市場原理を掲げて学校教育に立ち向かう子どもたちは、いわば、人類学的な進化圧に抗して戦っていることになります。おのれの幼児的欲望を抱え込んで、決して成長変化することのない消費主体のままでいること。市場原理は子どもたちにそうあることを要請します。でも、それは子どもたちを幸福にするためではありません。子どもたちを外界の変化にも適応して生き延びさせるためでもありません。 けれども、そのことを子どもたちに告知する人はほとんどいません。〉

第2章のリスク社会の弱者たちも、ちょっとかいつまんでみますね。

(リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目標に掲げる、相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから、「リスク社会を生きる」というのは巷間言われているように、「自己決定し、その決定については一人で責任を取る」ということを原理として生きることではまったくないのです。「自己決定し、その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。)

おそろしいことですね。あ〜〜こわい! でもこれほんとのこと言ってるんだよね。

教育の「入り口」でも「出口」でも、市場原理が深々と入り込んできている。そのせいで、こどもたちもあるいは卒業生を迎える社会も、学ぶことの意味を見失ってしまっている。 学ぶことの意味を知らない人間は、労働することの意味もわからない。)

第4章に、親と子の関係についてこう書いてあります。

(親の仕事というのは、本来子どもの発信するノイズをシグナルに変換することだと思うのです。///ノイズをシグナルに変換するというのは、ある種の「命がけの跳躍」なんです。(それは)敬意と忍耐をもって静かに耳を傾けなければいけない。///「製品」は歌わないけれど、子どもは歌っているわけですから。それを歌として聴き取れるのは、とりあえず親しかいない。)

そして最後に自身がこれからやろうとしていること、つまり武道をとおしての身体性の教育および宗教性、そして親密圏のモデルの試みについてなど語っている。う〜ん、やっぱりすごいや内田先生。わたしも関西にいたら内田道場に飛んでいっちゃうのになあ・・とほほ、あまりにも遠い。

 

 

 

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