内田樹先生の「困ったときはお互いさま」
今日、友だちに電話した。「なんだか、疲れたねえ!」友だちが言う。ほんとだ。なんだか疲れた。被災者のことを思うとそうは言ってられないという気になるが、次から次へと、やらなくちゃという思いに突き動かされる。気がつくと、とんでもないへまをやっている。自分でもやばいなとおもう。
今日も、片付いていない知人宅へ。外国人の支援ボランティアの方や、北海道からきたという10名ばかりの人が、家の前のがれきを取り除く作業をしてくれていた。
Tさんに声をかけて励ましている。その言葉のあたたかさと、無私の行為は、どんなに励ましとなるだろうか。玄関前のうず高い泥とがれきの山が取り除かれたら、水道が使えるそうだ。水を使えるということが、こんなにも嬉しいことになるとは・・・。
知人宅の家があと3軒ばかり東にあったら、跡形もなく波に呑まれていた。一階はドアも棚も無惨に壊れ、どこもかしこも泥が体積している。掃いても掃いても、終わりが見えない。
28日、野田村では最後の行方不明者2人が見つかり、死者38人になった。尊い命が一瞬のうちに消えた。祈るのみ。
今日は疲れたから、内田樹先生に元気をもらおう。3月24日のブログから。長いのでところどころの抜粋です。ごめんなさい。本文は内田樹の研修室でご覧ください。
「 兵站と局所合理性について」
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どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。 それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。 明治40年代まではそうではなかった。日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。 たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。 おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。
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そして、二度とも、「喉元過ぎれば」で、懐具合がよくなると、みごとなほどあっという間にその賢さを失った。 「中庸」ということがどうも柄に合わない国民性のようである。 今度の震災と原発事故は、私たちが忘れていたこの列島の「本質的な危うさ」を露呈した。 だから、私はこれは近代史で三度目の、「日本人が賢くふるまうようになる機会」ではないかと思っている。 私たちは地球物理学的にも、地政学的にも、つねに一歩誤れば国を失うような危険のうちで生きている。 そのことを念頭に置いて社会システムを制度設計していれば、「こんなこと」は起こらなかった。
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「こんなこと」が起きたのは、そのことをすっかり忘れていたからである。 だから、日本人はこれで「眼を覚ます」だろうと私は思っている。 私たちにとってもっともたいせつなものが何かを思い出すだろう。思い出さねばならない。 それは国土の保全と民生の安定である。
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(1) すべての原発の即時停止と廃炉と代替エネルギー開発のための国家的プロジェクトの始動
(2) 「できるだけエネルギーを使わないライフスタイル」への国民的シフト
(3) 首都機能の全国への分散
(4) 首都圏に集中している人口の全国への分散
震災と原発事故の被災者に対する支援は、それぞれの地域、組織の「カウンターパート」が引き受ける。
平たく言えば、被災しなかった自治体が被災した自治体を一対一で支援するシステムである。
要は「困ったときはお互いさま」というマインドでの支援である。 私はこのプログラムは政府主導の上意下達的・中枢的な支援策よりもずっと効率的できめ細かい支援を実現しうるだろうと思っている。 支援者の側が継続的・安定的に支援を続けられるためには、支援負荷が長期的にも十分に担えるレベルのものであること、それが自分たちの組織に「利潤」ではないかたちでのメリットをもたらすものであることが必要であるが、「対口支援」はこの条件に合致する。
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まなじりを決して、自己犠牲的に行う支援は、パセティックではあるが、永続的に行うことはむずかしい。 必要なのは全国民的な相互支援・相互扶助のマインドである。