原子力はいらない
六ヶ所再処理工場のことを考え始めたのは、何年位前からかなあ。それまでまったく原子力のことをわかんなかった。
その頃ものすごく巨大なものが、みえない圧力で口封じしてると、漠とした恐怖にかられた。いま、目の前の現実を見ると、事実は想像をはるかに越え、不気味で得体がしれない。
この先に、何がまっているのか・・・。
電気があるのが普通で、電気がないことを考えることもなかったけど・・・だから文句言うなといわれそうなんだが、女として母として、黙ってはいられない。子どもたちの生命の尊厳という一点において、譲れないものがある。それは産む性としての女の役目。
子どもの未来を危うくするものは、ぜったい反対!
連綿とつづく生物の連鎖を損なうものには、だんこ反対!
人も虫も魚も、母なる大地も、どんな名のもとにも傷つけてはならない。
もっと、ひたむきに、考えなければならない。
もっと、謙虚に、向き合わなければならない。
これから、先の未来のこと。今、おきていること。
さて、こんなとき、またまた内田樹先生に訊いてみたくなるのです。4月7日のグログから。
荒ぶる神の鎮め方
それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するか知れない・・・ 原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、「現代に荒ぶる神」に拝跪した。 そうではないかと思う。
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一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。 日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。 これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。 「原子力は金になりまっせ」 という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。 日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
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政治家も、官僚も、もちろん電力会社の経営者も、原発を誘致した地方政治家も、地元の土建屋も、補償金をもらった人々も、みんな「あれはただの金儲けの道具なんだよ」と自分に言い聞かせることによって、原子力に対する自分自身の中にある底知れぬ恐怖をごまかしたのである。
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(どうぞみなさま、このまま、「内田樹研究室」にとんで、全文を読んでくださいね!)











