村上ラヂオ2「おおきなかぶ、むずかしいアボガド」村上春樹
2011/09/27
お彼岸で、お墓参りをしました。新しいジジのお墓と、となりの村にある実家のお墓参り。娘夫婦と息子と夫とわたしで。台風あとの秋晴れでした。
むこうの鳥居のあるお山に栗の実がみごとになっていて、帰りしな、みんなで栗の木の下に立って栗の実を見上げました。いちばんおちゃめな娘が長い棒をもってきて「えい!、やー!」と振ると、みごと命中。おもいもかけない栗拾いに、つかの間の時間をついやし、どんぶり一杯の栗を拾い、家に帰って煮て仏壇に上げました。
台風あとの久慈は、あちこちで崖崩れがありました。いまも工事中です。
倒れた樹木や、崩れ落ちた土砂が無惨なすがたを表しています。長雨で飽和状態のところに台風の豪雨がきたので、地盤が悲鳴をあげたのですよね。
無惨に折れた樹木を見て、人も時にそれと同じようなことが起きたりする。理不尽で容赦のないものが人生の至る所で潜んでいる。村上春樹は、そんなことを言っているのではないか。それで、キャッチャーやセンチネルが必要なのだと。
カオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。社会的敬意も向けられず、賃金も払われず、達成感があるわけでもない。けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと人間的秩序は崩壊してしまう。
村上春樹はおそらく青年期のどこかの段階で、自分の仕事が「センチネル」あるいは「キャッチャー」あるいは「ナイト・ウオッチマン」であることをおぼろげに感知したのだ。
仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族は大切に。ことばづかいはていねいに。
というのが村上文学の「教訓」である。
ともあれ、私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの現場なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除したりアイロンかけをしたり、友だちに電話したりするのである。それはとてもとてもたいせつなことだと私は思う。(「村上春樹にご用心」内田樹から)
なんか先に結論がでちゃったという感じですが、ああ、そうかと、こころから納得しませんか。ずーっと村上春樹を好きでずーと読んでいて、なんでだろうな、こんなに好きなのという問いが、ラーメンを食べないというところだけ違うと豪語(言い過ぎかな)する内田樹の解析で、麩におちたのです。ほんとに。
村上春樹のエッセイは小説と同じぐらい大好き。最新刊の「おおきなかぶ、むずかしいアボガド」(マガジンハウス)を夏のさかりに買って読んだ。小説にくらべて、お気楽などうでもいいようなことが書いてあると本人も言っているが、それがちとちがうんだなあ。お気楽な中にキラキラと宝石みたいな原石がきらめく。それが小説では得られないより接点の近いものだったりすると、ちょっと幸せどころか、う〜んと幸せをもらったりする。だから、いつまでたっても村上春樹を読みたくなっちゃうんです。ほんと困ったもんです。こんどの本で、新しい発見がいくつかありました。
日本文学をあまり読まないという村上さんですが、最近は太宰治を朗読で聴いているそうです。わたしは朗読なら、もっぱら藤沢周平と向田邦子を聴いてますけどね。
あと、村上さんは、手紙とか日記が書けないそうです。わたしは気になってついついあちこちに手紙書いちゃうんだけど、これってよくないのかなあ? やめようかな。
そして、いままであまり触れてなかったけど、「十代の頃は本がなにより好きだった。/紙に活字が印刷してあれば、何だって読み、各種の文学全集を片端から読破し、中学高校時代を通して、僕よりたくさん本を読む人に巡り会ったことがない。」と書いてあって、やっぱりそうだったのかと思った。でも作家になってからは、昔のようにばったばったと読まないそうだ。う〜ん、わたしはまだばったばったと本を読みあさってるからだめなんだなあ。はやく大人にならなくちゃ。(?)
ベネチアで小泉今日子。無傷で人生をくぐり抜けることなんて誰にもできない。でもそのたびにそこには特別の音楽があった。村上さんも小泉今日子聴いたんですね。ちょっとびっくり。でもうれしい。
そう、一時期、わたしは音楽を聴くのを忘れていた時期があった、何年も。それを気づかせてくれたのは妹だった。そのときカセットから流れてきた音楽は身体中をカタコトと鳴らせてぐるぐると体中を巡りめぐったけ。あれは来杉たかおだったかな。音楽は身体も心も緩ましてくれますね。みなさん、音楽聴いて、ゆるりしましょう。あるいは、本を読んでゆるりしましょう。
最後にもう一度。
仕事はきちんとやりましょう。毎日顔を洗いましょう。お掃除せっせとしましょうね。
そして、どんなことにも、深刻になりすぎないようにしましょう。
村上さん、どうもありがとう!