‘2011/08’ カテゴリーのアーカイブ

じゃがいも、かぼちゃ、とうもろこし

2011/08/22

ぼん花

土日はいつも庭仕事と家の掃除。といっても外仕事は半日。それ以上やると身体にこたえる。皮膚が弱いのであちこちかぶれるし、ヤブ蚊にはあっちもこっちもさされっぱなしで、腕も足もキズだらけなのよね。

盆がすぎて、ずうっと雨模様。気温はぐっと下がり、長袖じゃないと、ちょっと寒いのです。

8月20日、おくればせのジャガイモ掘りをしました。実は畠のわきの生ゴミやら草やらをためておく所から植えもしないかぼちゃが2本ぐんぐんのびて、畠を我が物顔で這い回り、ジャガイモ畠も占領されていたのです。でも、いいかげん掘らなくちゃと掘ってみました。期待しなかった程度には、穫れました。う〜ん、量はすくないけどなかなかの出来です!へ〜い!

じゃがいも

これは、去年郵便局のふるさと小包でとった北海道のインカのなんとかというジャガイモ。サツマイモとジャガイモをたしたような味です。

黄金のジャガイモ

こちらはまちがって、同じ場所に種をまき、乱立状態だったトウモロコシ。こちらも、失敗のわりにはちゃんと実をつけてくれたところが泣かせます。トウモロコシはやっぱり穫れたてですよ。鬼嫁だけど、お姑さんに食べさせます。

とうもろこし

こちらは、カボチャ。あちらにもこちらにもフェンスにも這い上がり、ごらんのとおり軽業師なみの出来映えです。(これまで何度もカボチャに挑戦したのに、一度もうまくならせることができなかった。気まぐれですね、カボチャって)

かぼちゃ

まあ、それでも庭に小さな畠があることは、美容と健康のためにもとてもいいのです。それに今年もたくさんの蝶が育っていきました。もう秋がひたひたとせまっています。虫の鳴き声もにぎやかですしね!

畠

「カルパチアのミューズたち」みやこうせい 

2011/08/22

カルパチアのミューズたち

 

みやこうせいさんから新しい本が送られてきたのは春のことだった。

わたしはまだ震災の渦中にいて、はるか遠い異国の世界に心を移す余裕すらない状態だった。それでも本のさいごに収録されているCDは、その場でひらき聴いた。なぜか、懐かしく、癒された。まるでとおい昔を思い出すように、奥ふかく染みこんで。

みや氏のルーマニアの一連の写真も、やはり同じように郷愁を感じる。そこに写る人々は、衣装も顔立ちもまったくちがうのに、つい一昔前のこの辺のおばさんたちを彷彿とさせる。生活そのものが躰にしみついた顔、暮らしの中から湧き出る笑顔。子どもたちの無邪気な姿。そして、農家の庭先の原風景。日本もほんの少し前まで素朴であった。

「カルパチアのミューズたち」ルーマニアの音楽誌 みやこうせい(未知谷)

みや氏はいう。「ルーマニアに長いことかかわっているのも結局、その風土、人情、歌、踊りによる。住民のラテン気質とともに、耳に入ってくる声と音に何より本来、自由な精神を発揮する原初の人間を感じたのである。これまで、ルーマニアの音楽を聞かないで、あるいは想像せずに過ごした日はこの数十年、一日たりとない。」本のあとがきに、そう記してある。この分厚い本は「ルーマニアの音楽誌」と副題が表すように、歌いつがれてきた民族の魂の本である。

ねんねんよ/カッコウの赤ちゃん/カッコウちゃんゆらす/母さん

お出かけ/ねんねんよ/魚の赤ちゃん/魚ちゃんゆらす/丈夫に

育ってね/ねんねんよ/ねむったらすること沢山残ってる、家に

も外にも、秋でも夏でも(仕事が多い、だからお眠り、と歌う)

ねんねんよ」

ルーマニアの子守り歌。日本の子守り歌といっても、なんの違和感もない。どこの国の女たちも同じ思いで子守歌を歌ってきたのですよね。

ルーマニアの奥深く分け入り、人々の懐に深く交じり合い、すっぽりととけ込んだみや氏ならではの渾身の一冊。まるで「遠野ものがたり」の世界。異国の空へふっと連れて行ってくれる。

小屋と朝顔 野田村日形井

 

「養老孟司の大言論 希望とは自分が変わること」

2011/08/19

線香花火

よっ!

線香花火。

みんな帰って、やれやれ、の 線香花火!

新盆で泊まり客8人。四十八のろうそく立ても無事にすみ、

ほっと一息。とおもいきや、昨日の午後から雨。

洗濯物が山ほどあるのに、これでは後片付けがながびきそう〜。

ここ2週間はお盆の準備でふりまわされちゃいました。

菓子折り等30箱用意し、四十八の来客用の酒盛りの準備をし、姑宅とこっちの家の片付けと掃除とガラス拭きなどをし、お寺さんのお布施の用意をし、あれやこれやで、フー!!ま、みんな集まって楽しかったけどね!

何人かの人から電話で、それやこれやを話したら、「えー、そんなことやってるの。こっちはそういうのないよ。昔風なんだ!」などど、やゆされ、そうかそうか、やっぱり、そうかと思う。

変わらないのよね。ここの土地。さらにエスカレートしてるみたい。お返しまでしてると、ほんとエネルギーの損失甚だしく、おばかじゃないのと、思ってしまう。けど、やらないとなんだかんだとうるさく言われるので、めんどうくさいから、やっちゃうということなんです。はい、お疲れ様!!

しそジュース

というところに遠くから友人が訪ねてきました。シソジュースとドクダミの乾燥したものとコリアンダーの種を持ってきてくれました。

シソジュースは私も作ったけど、ずっと友人のほうが上手。ドクダミはどうしようかな? いつもドクダミローションを作ってるので、それにしようかなあ。家でコーヒーを一杯のんで、この日は久しぶりで野田村日井の苫屋さんに行きました。

苫屋さんには、先客がいて、話に花が咲いてついつい長居になりました。けど、ふだんできないおしゃべりができて、お盆疲れが半減。

ウバユリ

苫屋さんも関西人で友人も関西人で、「来さす」の意味がよくわからずすっとぼけていると、苫屋のご主人が「そちらさん、関西でしょう」という。「あら、どうしてわかったの」というと「来さす」はあっちの言葉だからという。

こっちのほうでは「来させる」というもんね。微妙なちがい。けど、ちがう。関西弁と東北弁のちがい。おもろいね。それに気質のちがい、多いに面食らうところらしい。かんたんに言えば、もっとはっきり言ってほしいということ。はい、ごもっともです!

希望とは自分が変わること

さて、養老さんの本です。盆前に積み上げた本をいっき読みました。

「養老孟司の大言論 希望とは自分が変わること」新潮社。気にいった文を羅列しますね。以下抜粋。

田舎者は自分の土地のことしか語らない。知らないんだから普遍なんか語らない。うっかり語るとバカにされる。

田舎者は田舎者でいいので、それは開き直りではない。多様性の一部なのである。私が一神教や儒教を嫌うのは、それが都会的な原理主義だからである。

イデオロギーや宗教という、より高級なウソを、偉い知識人たちが暗黙に否定してしまったから、庶民としては、より「低級なウソからでたマコト」に縋るしかないではないか。///人間は要するになにかを信じるしかない動物だということを、高級な人たちが忘れているのである。

現代日本の野菜は、味もそっけもない。

鶏は機械ではないが、機械と同じ扱いを受けている。生きものをそんなふうに扱って、まともなはずはない。それに気づかないのは消費者が現場を見ないからであろう。(ここを読んだとき、ああ、やっと書いてくれたとすかっとした)

自然破壊とは、自然を人が「思うようにしよう」と思った結果に過ぎない。幼児虐待とは、「幼児という自然」を、親が「思うようにしようと思った」結果に、やはり過ぎないのである。(まったく、そのとおり。親は残酷なものです)

希望とは、世界が変わるのではない、自分が変わるのである。その希望を押し殺すのが「変わらない私」、個心である。

 

 

 

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