マニュアルが役に立たない局面

身体を通して時代を読む

読んでない本が積み重なってるんだけど、だいぶ前に買った本「身体を通して時代を読む」甲野善紀/内田樹を再度ぺらぺらと読んでいたら、こんな文があった。前は見過ごしていたのだけれど。

 

「マニュアルが役に立たない局面でどう行動するか」

先日、阪神淡路大震災10年目だったのでひさしぶりに震災の時のことを思い出しました。まず思い出したのは「そのときの記憶がない」ということです。//////たぶん、被災状況を見て、あまりの大きさに記憶が「仮死状態」になったんじゃないかと思うんです。/////とりあえず足元だけ見て、そこにある瓦礫やガラスのかけらを拾う。そういうことでしか身体が動かないんです。被害の全体を俯瞰すると、自分のやっている仕事が秩序を回復するまでの何億分の1にしかすぎないことがわかってしまう。それほど無意味な仕事は引き受けられないんですね。無力感でへたりこんでしまう。だから、全体を見ることを停止してしまったんですね。

地震のような局面ではふだん使っているトラブル処理マニュアルは使い物にならない。そのとき僕たちが採用したのは。「現場処理」システムでした。////でも、マニュアルなしに最適選択ができる人がいる。そういう人が自然発生的に復興作業の指導者になっていきました。

 

なんだか落ち着かなくって。ざわざわするんですね。日本中の人がそんな気持ちなんでしょうね。

わたしのことをよく知るマドンナが、「あなたねえ、そこまでやらなくていいのよ」と、忠告してくれる。(けど人が思うほどはやっていない)昔も今も、どうやらあまり変わってないみたいだ。

じつはいま、右腕が腫れているんです。先週は病院に三日も行っちゃうし、筋肉痛だろうと気にしてなかったんだけど、ついに右手の腱鞘炎です。

これから庭の畠つくんなきゃいけないのに。でも、痛みはおさまってきたので、だいじょうぶ、大丈夫。

 

コメントをどうぞ

検索
コメントの書き方
コメントの書き方がわからない時は
こちらをご覧下さい。